History
 

 

 

その 1
知られざる歴史への招待
 

 


遣唐使の宿泊した所とは? 日本最初の海事法規を作成したのは?

薩摩の影武者とは?

                              その謎に迫る!

 

遣唐使の宿泊した所とは

遣唐使の派遣は、舒明天皇の二年 (630)年に始まり、宇多天皇の寛平四年 (892)年の廃止までの約二世紀半にわたり行われた。残された記録によると、十七回派遣となってはいるが民間人貿易船の往来を数に入れるならば、百人にひとりが二度と再び生きて帰れぬ時代に、想像を絶する航海であったろう。

当時の航路としては、北路である朝鮮沿岸経由、南路である北九州から一気に東シナ海を横切り中支を目指す航路、直行路である坊津から風を待って一気に中支に渡る航路、南島路である屋久島、種子島を見て奄美大島を下り琉球に至り、風を待って中支に至る航路。の四つの航路があった。それぞれの思惑を乗せて、遣唐使達は唐を目指して出帆して行った。

その規模は、最初の頃は小規模で、船団二隻、一隻あたりの乗組員は、約百二十人で、船舶の長さは四十五メートル、幅三十メートルと推定されている。第七回派遣の頃からは、乗組員数も増え、船団も四隻となっていった。乗組員は、遣唐大使一人、遣唐副大使二人、随員の判官、録事、知乗船事、訳語、主神、医師、陰陽師、画師、卜部、都匠、船工、鍛工、水手長、音声長、雑使、玉生、鍛工、細工生、船匠、水手、射手などで、二百五十人から中型船になると、百人から二百人、小型船になると、八十人前後であった。その他に、留学生、留学僧、貿易商人らが同乗した。彼らが苦労の末に持ち込んだ唐の文化を模範として、大化の改新が行なわれ大宝の律令が発布されたとされる。平城京(奈良)の都は、長安の都に習って作られた。

遣唐使船は、唐文化の摂取の為に唐へと派遣された国交船であった。

その遣唐使達の宿泊した所となると、風待ちの港停泊時で、遣唐船であったと考えるのが妥当であろうが、南島路の絶好の位置にあった坊津は、関白近衛家の荘園であり、その天平文化の入り口であった。そこには、唐客の為の旅館が存在していて、想像を絶する厳しく辛い航海の疲れを癒し、風待ちの為に宿泊していた。唐人旅籠と呼ばれて唐人達には、情報を得る場所でもあった。長い航海の疲れを癒そうとするであろう遣唐使達も又、どこかに宿泊したに違いない。

では、一体何処だったのか?

坊津における近衛家荘園の時代において、最も代表的な仏閣は、栄松山興禅寺であった。遣唐大使始め主だった乗組員達は、栄松山興禅寺を訪れ、ご住職の招待を受けたであろうことが予想される。遣唐使達の宿泊していた所は、栄松山興禅寺であった。

栄松山興禅寺とは?

曹洞宗で、開山を弧山広照禅師といい、観音堂は四間四間の唐戸で、色彩も建材全てが、唐船にて運ばれて来た、唐木、唐造りであった。唐客の香華院として唐人が造ったとされる、日本でも前例のない寺院であったと伝えられる。観音は、正観音で定朝作と云われている木造で、高さは一尺二寸あった。霊験ある観音で、海上安穏のお札を出していた。

そして、坊津とは?・・・・・・・・・鹿児島県薩摩半島の西南端に位置する最も重要な、港であった。

「日本向けの航路は、天宝年間以後(742~755年 中国は元宗の時代)これより、坊津の湊を入唐道と云うなり」と、絶海新編に記されているように、多くの人々が坊津を訪れている。そして、「唐の湊」と唄われるようになる。

 

日本の海事法規を最初に作成したのは???

飯田備前その人である。

何故、坊津の坊に住む飯田備前だったのか? 坊津は、日本三津の総路として、古代から高い地位を誇っていた。中国大陸との往来が盛んで、海事法規の知識は勿論、文化的にも先進地であった。

そこで、最も信頼できる飯田備前に白羽の矢が当たったという訳であった。

どのような人物であったのであろうか?

生まれた年は不明であるが、近衛家の家臣として坊津町坊の菖蒲谷に生まれる。父上の後を継ぎ、お舟奉行職にあったと思われる。唄を詠み、栄松山興禅寺に度々出入りして、西村(さいそん)と云う唄名を貰う。

海事法規を作成したのは、いつの事であったのであろうか?

鎌倉幕府は、北条義時に召されて、鎌倉に入った薩州坊津の飯田備前守は、貞応2年(1223年) 二月十六日、兵庫は辻村新兵衛尉、土佐浦戸の篠原孫右衛門と共に舟法度を制定する。日本海事法の祖となる廻船式目三十一ケ条である。

鎌倉幕府は、その功績に対して三人に、袖判を与えた。

その廻船式目は、坊、兵庫、浦戸の三主要港の権威と中国は唐の時代からの或いは、宗の舟法度を参考にし作成されたと思われる。

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薩摩の影武者 

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに於いて、「我こそは、島津義弘なり」と、太刀を振り被って、敵陣を突破して行く姿をテレビなどでよく目にする。実は、島津義弘ではなく、義弘の影武者であった。

それは一体、誰だったのか?

義弘の影武者を務めたのは阿多長寿院盛淳である。その為に、島津義弘は取り囲まれていた敵陣から悠々と突破し、無事薩摩に着くことが出来たのである。

阿多長寿院盛淳とは、どういう人物なのだろう? その人物像に迫ってみよう。

父は畠山中務少輔頼国・橘(きつ)隠軒である。

1548年 天文17年 坊津は鳥越に生まれる。橘隠軒が来薩摩して後、九年目にして生まれた子である。三十六歳の時、父を亡くした。大興寺碑文に長寿院諱盛淳、大乗院盛久和尚となる。とある。紀州高野山に行き、木食端座苦行八ケ年の修業を経て、更に根来寺に至って物理を研究

し、のち鹿児島に帰って安養院の住職となった。安養院住侍は、文祿(1592〜1595)の頃だったと伝えられている。盛淳は、諸国へ遊学し、明敏にして事に習った。

第十六代島津義久は、時々城中に呼んで諮問したが、しばしば他国へ使者として使わせた。島津義弘の命によって、還俗し仕官して国老に迄なり、勲功を現した。還俗(げんぞく)しても、髪を長くしなかった。その為に黒衣の宰相(さいしょう)と呼んだ。宰相:政治を行なう最高の官職。

1586年 天正十五年に、秀吉が二十万の大軍を率いて島津氏を攻めて来た時には、和議が成って鹿児島県川内の大平寺で島津義久を引見した際、盛淳も重臣の一人として、外の六人と共に秀吉に謁した。

関ケ原の時は、上方(大阪)の急を聞き、自分が地頭をしていた鹿児島県蒲生の群衆を率い、徹夜して急ぎ駆け付けた。住侍をしていた安養院の寺高七百石のうち五百石を売って軍資金に充てたとも伝えられる。

兼ねてからの旧知の石田三成も喜び、金張りの軍配を与えた。

島津義弘の喜びようは、例えようもなく「おお盛淳よく来てくれた。お前の来るのをどんなにか待っていたことか」と、急ぎ出迎え、手を取って陣の中に迎え入れた。そして、秀吉から貰った鳳凰の陣羽織を与えた。信頼されていたようである。西軍既に破れて、その勝ちに乗じた小早川秀秋、脇坂、小川、杤木、赤座、京極、藤堂等の大軍が、義弘の首を狙って攻め込む。そこで、盛淳は影武者を志願して義弘を逃がそうと試みる。

馬に乗り、「我こそは、島津義弘なるぞ」と言って、敵陣中央突破するのである。

それは、五十三歳の時であった。島津義弘の身代わりになって、関ケ原にて没。

この為、島津義弘は無事に、薩摩に逃げ帰ることが出来たのであった

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